

ブレーキなし、ギアなし、後輪サスもなし。シェールの土を蹴って横向きに走るスピードウェイは、二輪競技の中でも最も原始的な世界です。英国のメディアが報じた体験記では、ロード歴15年以上のライダーが125ccのスピードウェイ車両で滑りの基本を学び、その技術が公道のグリップ喪失時にも生きたと語っています。本稿では、私が業界で長年見てきた『オフトレ』の効用と、Honda CG125エンジンを積んだ練習車のメカニズムを軸に、なぜ世界のトップライダーが土の上を走り続けるのかを技術的に掘り下げます。
目次
スピードウェイ車両のメカニズム、CG125が選ばれる理由
今回の体験記で使われた練習車は、Honda CG125のエンジンをスピードウェイ用フルサイズフレームに搭載した一台でした。CG125は、空冷OHV単気筒という極めて古典的な構成で、世界中の新興国市場で実用車として使われ続けてきた、いわばHondaの『鉄の心臓』です。私が業界にいた頃から、このエンジンは『壊れない、直しやすい、トルクが下からある』という三拍子で評価されてきました。スピードウェイ練習車にこのエンジンが採用されるのは偶然ではありません。リアサスペンションを持たない『ハードテール』構造で、シートとリアホイールが剛結されたフレームに、衝撃と振動を吸収しきる頑丈な腰下が必要だからです。フロントには簡素なダンパーのみ、BMXのように深いステアリング切れ角を持ち、車重は驚くほど軽い。ブレーキは前後ともになく、減速はエンジンブレーキと左足のスチールシューで土を擦る摩擦で行います。右側にはステップではなく金属フックが固定され、左にしか曲がらない設計です。乱暴に言えば『左旋回専用の、最小限の機械』。この割り切りが、ライダーの身体操作だけで車両を制御させる学習装置として機能します。私が長年信頼してきたNC750Xの設計思想とは対極ですが、Hondaの汎用エンジンが世界の練習現場を支えている事実には、技術屋としての誇らしさを感じます。(出典: https://www.morebikes.co.uk/new-features/news/285016/how-to-go-slideways/)
公道車との設計思想の違い、何を捨てて何を残したか
公道用のロードスポーツとスピードウェイ車両を比較すると、設計者が何を優先したかが鮮明に浮かびます。現代のスーパースポーツは、トラクションコントロール、IMU、セミアクティブサスペンション、スリッパークラッチと、滑りを抑え込み、安定を作り出す技術の塊です。一方スピードウェイ車両は、滑ることを前提に、それ以外を全部捨てています。リアサスがないのは、土の路面で荷重移動をライダーの体重と尻の浮かせ方で完結させるため。ブレーキがないのは、ブレーキングで姿勢を作るのではなく、スロットルオフのエンジンブレーキとリアスライドで減速姿勢を作るため。シートすらプロは外していると記事にあります。私が30代で乗っていたX4は、1300ccの巨体をいかに穏やかに走らせるかという設計でしたが、あれもまた『捨てたもの』が明確な一台でした。設計には常にトレードオフがあり、何を残し何を切るかにメーカーの思想が出ます。スピードウェイ車両の場合、ライダーのスキルそのものを電子制御の代替にしている。これは、初期のCB-1やBROSの時代に、私たちが身体で覚えていた感覚に近いものです。電子制御が当たり前の今、あえてこういう機械に乗る価値は、技術の原点に触れることにあります。
実走で何が変わるのか、滑りの感覚がロードに効くメカニズム
記事の筆者は、スピードウェイ体験後にロードバイクに乗ったところ、ワインディングで車体を寝かせる動作が以前より楽になり、タイヤが少し動いた瞬間の対応にも余裕が生まれたと書いています。これは精神論ではなく、神経系の学習として説明できます。タイヤが滑り出した瞬間、人間の通常反応はスロットルを閉じることですが、これが二次的なグリップ回復で逆にハイサイドを誘発する場合があります。スピードウェイでは『滑っているのが常態』なので、滑り出しに対する身体の硬直反応が消え、スロットルとリアの荷重で滑りをコントロールする回路が脳に書き込まれます。MotoGPライダーがフラットトラックやスーパーモタードでオフトレを欠かさないのも、まさにこの神経回路の維持が目的です。私自身、若い頃に林道でBROSを振り回した経験が、後年ST1300で雨の高速道路に出くわした時の余裕に繋がったと感じています。ロードしか乗らないライダーほど、年に数回は土や砂利の上で滑る経験を積んでおく価値があります。費用対効果で言えば、最新の電子制御に頼るより、自分の感覚を磨くほうが結果的に長く安全に乗れる投資になります。
整備性と耐久性、グラスルーツを支える設計の合理
もう一つ技術者目線で注目したいのが、スピードウェイ練習車の整備性です。記事にはバンの後ろから工具を出し、ポップアップテントで運営する『グラスルーツ感』が描かれていました。これは運営が雑なのではなく、車両側がそれで成立する設計だということです。CG125のOHVエンジンは、特殊工具をほとんど必要とせず、バルブクリアランス調整もシックネスゲージと普通のスパナで済みます。サスペンションが前後ともシンプルなので、整備項目自体が少ない。タイヤとチェーンとクラッチさえ管理すれば走り続けられます。私が重視ポイントに挙げる『部品供給』『維持費』の観点でも、CG125系の部品は世界中に流通しており、入手難に陥る心配がほぼありません。これがもしハイテンションな500cc専用エンジンだけだったら、初心者向けスクールは成立しなかったでしょう。技術の進化は華やかですが、こうした『教育用途を支える枯れた技術』の価値は、業界の現場にいると痛感します。Hondaが新興国向けに作り続けてきた基本設計が、英国の田舎で滑りを学ぶ場を支えている。この巡り合わせは、技術者として素直に嬉しいものです。
滑る技術トレンド、フラットトラックとオフトレ文化の広がり
オフトレ文化は、ここ10年で確実に広がっています。MotoGPライダーがランチ・ボックスと呼ぶ自前の練習場でフラットトラックを走る映像は珍しくなくなり、市販車の世界でもHondaのCRF系やヤマハのSR400ベースのフラットトラッカーカスタムが一定の支持を集めています。記事に登場したエイダン・コリンズ選手は『MotoGPパドックのライダーは全員、何らかのオフトレをしている。グリップを失う状況でのスキルを学んでいるからだ』と語っています。これは現役プロの実感として重い言葉です。日本では公道事情やコース不足もあり、スピードウェイ自体は馴染みが薄いですが、ジムカーナやモタードスクール、林道ツーリングなど、滑りに近い経験を積める場は意外と存在します。私のガレージにあるスーパーカブ50も、未舗装路でゆっくり走らせるだけで、トラクションの作り方を再確認できる立派な教材です。高価な車両でなくても、滑る経験は積める。これからの数年、安全運転講習の中にオフトレ的要素を組み込む動きが、日本でも広がるのではと期待しています。技術として注目すべきは、こうした体験を提供する側の車両設計と、教育プログラムの体系化です。
まとめ
スピードウェイ練習車の技術的価値を一言で総括するなら、『電子制御の対極にある、人間のセンサーを鍛えるための機械』です。Honda CG125という枯れた汎用エンジンが、世界のオフトレ文化を底辺で支えている事実は、技術屋として誇らしい巡り合わせと言えます。ロードしか乗らない方も、年に一度は土や砂利の上で滑る経験を積んでみてください。神経回路が書き換わり、雨の交差点や砂の浮いたコーナーで身体が勝手に反応するようになります。次に注目すべき技術ポイントは、こうしたオフトレ車両に電子制御をあえて入れない設計判断が、いつまで続くか。ABS義務化の流れの中で、教育用車両がどう特例を取り扱うのか、業界の動向を注視していきたいところです。

